ぶろぐはぶろぐ。

関西弁が恥ずかしい時期があった

関西弁を喋ることが恥ずかしい時期があった。

神戸の田舎から出たことのない人生だったけど、映像監督の弟子になりたくてTV映像の仕事をやめて24歳で上京した。
上京してすぐ、師匠に「関西弁ダサいからやめたほうがええで〜」と皮肉いっぱいに言われた。
むかついたというより突然自分の言葉をそんな風に言われる意味が全くわからなかった。
今だったら、師匠も関西出身だったということ。多分それで苦労したこと。
だからって師匠だったら弟子に何を言ってもいいんか?と冷静に考えられたが、
何も持たず上京したような馬鹿な私には師匠しか信じるものもなく、
ただ関西弁のことを言われる時はいつもヘラヘラとダサい感じで聞いていた気がする。


12年経って関西弁を喋るなといった師匠の言うことが、ほんの少しだけわかった気もした。

方言を喋る人に映像の良し悪しなんてわからないっしょ?みたいなことを言うダサいやつもいた
関西の人って…と偏見を押し付けてくるダサいやつもいた
関西弁で怒鳴って、めちゃくちゃ現場や打ち合わせの空気を悪くするダサい人もいた
関西弁じゃきつく聞こえると何度も言われた
アイデンティティを捨てたと言われた
東京に染まったなぁと皮肉を言われた

喋り方一つで全員馬鹿みたいだと思った。



12年経って師匠の呪縛もなくなり
(そもそも破門になった私に呪縛だなんだ偉そうなことをいう権利は一切ない)
今は正直、別になんだっていいただ東京にいてたくさんいろんな地域の友達ができ、方言という概念だけではなくいろんな人の様々な話し方があって、自分はこの人のこういう喋り方が大好きだなとかを気付けるようになった。

パートナーの喋り方がすごく優しく、こういう言葉使いをすれば
人にうまく自分の気持ちを伝えることができるんだなと知った。
怒ってるつもりがなくても、こういう言い方をすると
キツいなと感じさせてしまうんだなと知った。
同じ関西人でもやわらかな喋り方をする友達の言葉が自然と自分の中に根付いてたりもしている。



先日大阪の友達と喋ってた時、自然と「ほんでな〜」と喋ってる自分がなんだか嬉しかった。先日神戸に帰った時、車の中でKissFMから神戸弁が流れてた。理由はないけど、自分がこのラジオの人たちと同じ喋り方をしてることを誇りに思えた。


今は、自分が自分らしくいれるんだったらなんだっていいと思えるようになった。

今年ももう終わる

編集するデータが一向にこないので、PCを整理してると2023年1月のメモが出てきた。
このメモの時より1年経って振り返ると、すごく人に助けてもらい、気持ち面で成長できた1年だったなあ。



以下2023年1月のメモ


パートナーに「他人の弱さも含めて愛してあげようよ。」と何かを愚痴った時に言われた言葉を不意に思い出した。
言われた時は、「ん?」という感じだったが、自分が参って悲しくて仕方ない今わかった気がする。そういうことか。

失敗しちゃダメだとか、泣いちゃダメだなとか幼少期から思いすぎて、辛い時も泣くもんか!失敗しちゃダメだ成功しなきゃと自分で自分を鼓舞してきた。

とかカッコつけたこといって振り返ると失敗したり泣いたりしたことばかり記憶に残ってきた。

ピアノの発表会嫌いなやつの前でミスってださかった、彼氏に振られて泣きながら「死ぬ」と垂水駅で脅したのもダサかった(今でもその時のこと思い出して垂水駅直視できん)、お父さんに「泣くのはずるいよ…」と感情的になって泣いてる私に、ため息つかれながら言われたのも今になってみれば確かにずるい部分もおおかった、上京してから撮影の時、勝手にみんなに裏切られたような気分になって地団駄踏んで泣いたりしたのももうその人たちに会いたくないレベルにダサい、ダサい自分が嫌で嫌で仕方なかった。



今自分がいる世界は1人じゃ生きていけないから、たくさんの人と接するけれど、三十歳過ぎてから時々厳しいことを他人に思ってしまうこともある。
(冷静に考えるとその人がミスったからどうとかじゃなくて、「自分に余裕がないから」キレてしまってんだなと思う。クソダサボケ)
それの何かしらかの愚痴を連日こぼしてた時にパートナーに言われたんだ。たしか。「他人の弱さを含めて愛してあげようよ」って。



弱さを愛するってなんだ?とおもったし、いや優しいほうだよ?とも思った。
でも今自分がしんどい辛いって時に、なぜか「お前が普通で才能ないからだろ」とか脳みそが罵詈雑言であふれて、どうしても自分を肯定してあげられない。
「おいお前間違えてないぞ!!大丈夫!!!最高!」と誰も心の中で自分を応援してない自分の存在に気づいた。
そこに気づいて初めて私は「弱さ=失敗」と思っていたこと、失敗が怖いことに気づいた。

結局、弱い自分に向き合うことが怖かったんだなと思った。

「他人の失敗を許せない」なんて自分が一番なりたくない自分なのに。
あぁ、なりたい自分になりたいな。かっこいい自分でいたい。
他人だとか自分だとか関係なく弱い部分も否定せずに肯定したい。
だってめっちゃ頑張ってることだけは絶対ゆるがない事実だと思ってる、私も当時否定してしまった誰かも覚えてない人も。




自分も他人も肯定するって難しい、犬にならできるのにな。犬のことずっと褒めてるのにな。いいこいいこって。だって本当にいい子だから。
オチも何もないけど、今この瞬間の気持ちを残したくてメモ。いつか見返した時に、こんな自分もいたな、がははとなれる日がくるんだろうか。
今まで否定してきた自分の中の自分、ごめんね。努力は報われるはず。2023年1月の私より。

編集をしていると自分と向き合う時間が多くなる

現場もめちゃくちゃ好きだけど家で作業している時間の方がはるかに長く、その時間はたまに死ぬような気持ちだけど、その時間もわるくないという話


最近特に現場が楽しい。
自分がカメラを回さないような現場(例えばMV)は、この年齢になってやっと好きな仲間と一緒に仕事できる機会が増え、それぞれのプロが集まってこういうレンズを使おう、こういう照明にしよう、こういう演技をしようとか考えてる時間が楽しくないわけがない。
現場毎こういう仕事に憧れて上京したんだなぁといつだって思える。

自分がカメラを回す現場(例えばドキュメンタリー)は、
相変わらず自分は本当にくそだな、忍耐が必要だな…と後悔することも多いけれど、自分の目で見たものをカメラを通して撮影させてもらうということはすごく楽しいし、演者だろうがスタッフだろうがお客さんだろうが、誰だって生きてるだけでドラマが沢山あるんだなと感動させられることばかりだ。


なんていって映像って仕事柄、撮影したものをもう1度見直して編集するわけで、現場の数よりも圧倒的に家や編集所で作業している時間の方が多い。
気がついたら何日もただただPCの前に向き合って、悩んで悩んで、栄養のないご飯を食べて太って体を壊して。パートナーと犬と出会えたおかげで編集期間も人間という形あるものにしてもらうことも増えたが、大体はメタモンみたいにドロドロかその辺の泥みたいに汚い液体みたいなもんだ。
(てか、ずっと思ってたけどyoutubeとかでたまに流れる編集している動画クリエイター?の広告にいつも驚かされる。締め付けの多そうな服を来て化粧をし遅延の多そうなワイヤレスヘッドホンで作業なんて、私だったらストレスで全てのものを破壊してしまいそう)


愚痴を言いたいんじゃなかった、それでも編集していると
この画すごく綺麗だなとか、ここの繋ぎめっちゃ心がぎゅってなるなぁ、この時映っている人はどういう気持ちだったのかな?とか、撮っている時とまた違う感覚で楽しめるからそういう時間がめちゃくちゃ楽しい。(ずっと死ぬほど孤独だけど)


昔私のお世話になってた方が「撮影している時と編集している時、それぞれ別の監督が心の中にいると思った方がいい」と言ってた。
何十時間も何十カットも撮ったものを、限られた中に納めなければいけないのは難しいし、これが一番最善なのかなと考えだすと、自信がなくなって消えたくなるけど、結局最後は自分の信じたものを貫くしかないと思う。



あと何年自分がこの世界から必要とされるか、この仕事でお金を稼げるのかはわからないけれど、
自分が「作り続けたい」と思う限りは目の前のことにしっかり向き合ってやっていきたい。


たまに孤独で潰されそうになる。(メンタルがヘラってるわけではない。もっと遠くで近くの自分を見てるような気持ち…意味わからんな)
でも今、私にできることは楽しい気持ちでやるしかないってこと。
(とは言っても仲間はいつだって欲しいので、
映像の仕事したいな、デザインで映像に関わりたいな、編集で映像に関わりたいな、撮影で映像に関わりたいな…などこういう仕事に興味ある人はいつだってフッ軽に連絡ください。08kuma.kuma17@gmail.com  作品集はtwitterへ)

こだわるって難しい

 

「ちょっとしたニュアンスにこだわる」みたいなのが一番難しいなって最近思ってる。

 


こだわりがないわけじゃなくて、本当は細かいことなんてあれもこれもしたい。

前髪一つ、表情一つ、動き一つ、、、、正直言い出したらキリがない。

でも、時間は有限だし、たくさんの人と接して仕事をするということは一番大切なのはバランスじゃないかなとここ最近はずっと思って生きてきた。

 


それでも、バランスとかいう見えない何かに気を取られすぎて、自分には何か一つ「信念」というのか、そういった核みたいな部分が少し足りない気がした。

もしかしたら核なんてないのか、それともどこかに置いてきてしまったのか、、、。

 


何かを否定したいわけでも、何かに不足や不満があるわけでも決してない。今までやってきたことは絶対全力でやってきたし、いつだって満足の方が多かった。

だけど、それでも自分は何かが足らない気がしてその何かをずっと探してる気がする。

 

 

 

 

もう十分めんどくさいおばさんだよ?って言われたら、それは本当にごめんって思う。

折れないこともたくさんあった。(ラッキーなことに、それを認めてくれる人が周りにいたおかげで今がある)

喧嘩もするし、悔しい気持ちもたくさんした。

 


なのに、

時々「自分はどうしたいのか?」と問うてくる自分が急に現れる気がして、そいつのせいですごく「自分って何もないな」と思って落ち込ませられる。

 


今まではここで落ち込んで、酒飲んで寝て終わりだったけど、もっともっとやりたいことや返したい人や物事がたくさんあるから、ここで自分自身に負けてらんないなと思ったので日記を書きました。

 

生きてる間に伝えなきゃいけないことってたくさんあるなとおもった日

出張帰り、実家に立ち寄った帰りの新幹線

新大阪最終に乗るのに、親が送ってくれてホームで手を振ってくれた。「座席逆側やからホームおらんでええで」って言っても、いつも送ってくれる。
551にりくろーおじさん、たくさん手土産も買ってくれる。(そして自分家の分も)あぁ、泣きそうだなっていつもこの光景に思うのに、いつからか「あとこうやって何回親に会えるのかなぁ」と、ふと思うようになった。



親友のご両親が最近亡くなったことを知った。
親友の赤ちゃんが生まれたことをたくさん知った。

いつも不思議な気持ちになる。
みんな出会った頃から見た目はなにも変わらないし、話をしてもあの頃と変わらずクソほどしょうもないことでケタケタと笑ってるのに、子どもを産んだり、親が離れていったり。

私も人生いつかは子どもを産んだり、親が死んだりするのだろうか。
友達がいなくなったり、私が突然いなくなったりするのかなぁ。


新幹線出発前
思い立って扉側にいって親に手を振ろうと外をみると、扉の前でバイバイしあってる女子高生と男子高校生に出会った。
女子高生が私に気を遣ったようなハッとした表情をしたので、不意に笑ってしまった。
笑った瞬間、奥にみえた両親も笑ってた。


最近自分の将来、5年後、10年後、これからどうなるかわからないことだらけで、不安で胸がいっぱいになる瞬間が多い。
仕事も、大切だなと自分の心に確認すればするほど、それでもいつかは離れてしまうものなのかなと悲しい気持ちになってしまう。
全部勝手に悩んだってどうしようもないのにね。



こうやってちょっとしたことで笑い続けてたいな。あわよくば、それが私の周りの人も、そして知らない人たちにも伝染していけるような人間になりたい。

友達の結婚式で流れていていい曲だなぁと思って改めて歌詞を読み返した言葉でおわり。

「言わなきゃね 死んじゃうから僕は
 ありがとね 
 愛してる
 ありがとね」


おまけ
おかんから「あの子ら、キスしてたで😏」ってラインきてました。幸せであれ!

毎日悲しかった頃の私が会いにきた日

毎日悲しかった頃の私は、自分の人生を全然生きておらず誰かの人生ばかりを生きていて毎日ともかくモヤモヤしていたし、誰にも優しくできなかった。

毎日泣いていたわけではないけれど、ともかく何も感じない日々だった。
音楽を聴いても外に出ても、季節が変わっても可愛いものを見ても、なぜかそれらと自分を勝手に比べて、勝手に悲しくなって勝手に怒ってばかりだった。


お酒だけが美味しくて、ともかくお酒をよく飲んだ時期だった。お酒を飲むと好きな音楽がちゃんと身体に染みたし、着たい服を買おうと思えたし、季節を感じてなんだか人間に戻れた気がしていた。

 

 

今日たまたまふとした瞬間に、チクチクとその頃の私が「あん時こんなに腹たったよね。」「世の中クソだわ!クソはクソのまま!」「でも、私だって絶対酷いことしちゃったよね、、」とかいろんな声が心の奥からすごく小さな声で叫んできたのが聞こえてきて、少し笑ってしまった。
昔だったらどっと落ち込んでたけど、なんだか今日が涼しいからか、夏のモワッとした空気のようで別にこう言う感じをたまに持つことも悪くないなぁと思った。

 

毎日悲しかったな。
楽しいこともあったのかもしれないけど、なんでか全く思い出せない。それよりも前のこととかはすごく覚えてるのにな。

でも。
忘れて良いんだろうな。そして、たまに思い出した時にちゃんと「私、めちゃくちゃ頑張ってたね。えらいね」って褒めてあげれば、少しずつ消えていくんだろうな。

 

 

 


悲しい感情も怒りも

いつかは消えてしまうんだな。

それもまた、なんだか少しだけ、寂しい。

 

身体っていう器の中に残せるものは限られてるから、消えていくのは仕方ないけれど。今日みたいに、たまにはお盆だし会いにきてね。
いつでも話聞くし、応援しています。

 

自分の味方は自分だって気づけてからの方が毎日とっても楽しいよ。

 

遠くにいる友人へ

最近オンラインゲームをしている。

ゲーム内では、素敵な人にいいね!を飛ばしたり、チームに所属することもできて、知らない人たちと一緒に強い敵と戦ったり、だべったりすることで友達ができる。


私も小規模のチームに所属して、友達が数人できた。
友達が美味しいと言ってたお菓子がケータリングにあったら「あっ」と嬉しかったし、その子の顔が浮かんだ。
チームの面白担当みたいな人の誕生日、

その子が「桜の下で写真を撮りたいな」というので、桜のあるフィールドに行き、みんなで写真を撮った。

数日後、夢にその子が出てきて「夢って、会ったことない人も出てくるんだなぁ」と思った。

一回り以上違う男の子と好きな映画の話をした。海外版ハチはガチで泣けるから絶対に見た方がいいと教えてくれた。そのあと強い武器を取るための敵を一緒になって一時間くらい倒してくれた。

 


ゲームのイベントで花火をみんなで見た。
花火が見れるところはすごく混んでいて、

友達とはぐれないように会話しながら

他のメンバーのところへ向かった。
「前の方にいるよ!」
「ひだりまえ!」

 


ゲームの世界なのに、みんなが目の前にいるような気持ちになって、こっそり花火よりみんなの顔を見ていた。

 

 


先日のロケの行き道、車の中でなんだか寝れなくてぼんやりと外を眺めた。
たくさん家があって、その街にもたくさん人が住んでるんだなと感じた。
もしかしたら、あの家の2階に住んでる人もゲームをしてるのかもなぁとかくだらないことを考えた。

 


遠くにいる友人たちに思いを馳せる一日。

みんなが今日も楽しい一日だったらいいな。