ぶろぐはぶろぐ。

三宮からそごうの看板がなくなった日

 

 

私の父は、私が生まれる前からそごうで働いていた。
小さい頃には、何度も父に会いに母や祖母とそごうに行ったし、そこでいつも照れながら私たちにこっそり手を振る父がなんだかすごく好きだった。

 


私の父は若い頃カメラマンを目指していて、映画の車両部などでバイトをしていたらしい。
松田優作みたいな髪型をして、松田優作みたいなサングラスをつけ、自主映画を撮ってる父の写真や作品を小さな頃から(嫌になるくらい)散々みせてもらった。
そんな父が私にはすごく自慢だったし、作品の良し悪しはおいといて(笑)、今でも当時のカメラを愛おしそうに残している父が素敵だなと思った。

 


そんな父がなぜ三宮そごうで働きだしたか、私は知らない。家族ができたから、かもしれない。
その時、父はどんな気持ちで全然業種の違う百貨店で働き出しただろう。
あんな松田優作かぶれの今で言うサブカルな父親が、接客業なんて上手くやれたんだろうか?と今になってふと思う。それでも、今の今でもしっかりと毎日働いている。

 

 

 

 


私の記憶にある父親は、いつだってそごうでニコニコと働いている父親だった。
北海道の物産展に母親と行ったときは、いつだってチラッと覗きにきてくれたなぁ。
おばあちゃんとも何度もお父さんを覗きに、山側のエスカレーターのぼったなぁ。
お母さんとお父さんが一度だけ本当に離婚してしまうんじゃないか?と思う喧嘩をした日、お父さんの仕事の昼休憩のタイミングで、近くのがんこでとんかつを食べたなぁ。笑


成人式の振袖だって、
友達の出産祝いだって、ぜんぶ三宮そごうだった。

 


そんなに裕福な家庭ではなかったかもしれない。
地震以降辛いこともたくさんあったし、周りを羨ましいと感じたことも正直あった。
でも、父がそごうの早番が終わるのを、母と551やピロシキを買いながら待って、仕事終わりにいつもの場所で合流して、家族みんなで晩ご飯を食べに行く時間が私にはすごく大切だった。


上京してからもそれは変わらない。
震災前も震災後も。
私にはそんな生活が愛おしかったし、そんな時間がすごく幸せで大切な原風景だった。

 

 

 

 


先月帰省したタイミングでそごうに行くと、たくさんの人が思い出を書いた紙が貼られていた。


親にランドセルを買ってもらいました
子供にランドセルを買ってあげました


そごうに習字が飾られました
習字が飾られているのを家族で見にきました。


三宮そごうには、十人十色ひとりずつの思い出がふわふわとたくさんあるんだなぁと思った。
そして。その一つに私の父親との、家族の大切な思い出もあるんだなと思った。

 

 

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(父親から送られてきた写真)

 


お父さん、とりあえずお疲れ様です。
阪急にかわっても、一人一人の思い出がある場所には変わらないと思うので、これからもまた新しい思い出をたくさん一緒に作っていこうね。